「美しき水の郷あきた」

遊鳳窟

各ホームページより
画像は
野沢博美写真集
「鷹匠」

 
 子供の頃、「タカ使い」や、「マタギ」が雪の山を歩き、へらで立木をたたいてウサギなどを穴から追い出して。タカをとばして獲物をおさえるところを見た記憶がある。その頃はまだ、暮らしの糧を得る生業の一つであった。今の狩猟の、ゴルフをやりに行くかと同等のものでは決してないと言うことだ。

人間が生活するところには、人間が生活した分の歴史がある。その歴史を大切に、継承できるものはそれに務め、出来ないものは、その土地の歴史文化財として語り継ぎ、またその資料を守ることだろうと思う。

 もはや歴史と言われつつある「タカ使い」、それは、仙道の檜山にあった。
「鷹匠」「伝統農民タカ使い」現在では派手な印象とかエンターティメントという感じさえするが、実情はそれも生活の手段であったし生きるために拾得した技でもあった事を忘れてはならない。雰囲気的に「マタギ」と「鷹匠」とは差があるように感じられるが「タカ使い」となればまた生活の技の匂いもする。
右の写真は、檜山に来るものを迎えるように立っている「狩猟師三浦寅吉・恒吉親子の碑」が立っている。(2004・5・2撮影)この碑は、戦後も鷹匠として活躍してきた土田林之助氏(昭和49年死去)が、昭和35年11月に建てたもので、林之助氏は恒吉氏の甥にあたる方です。
 
 このページは、秋田県農林水産部農村振興課のホームページ「美しき水の郷あきた」で紹介されている写真集のページより転載させて戴きました。また、『遊鳳窟』ホームページ「一人の鷹匠をめぐって」のホームページより転載させて戴きました。それぞれのホームページに伺って戴きたいと思います。


「美しき水の郷あきた」秋田県農林水産部農村振興課|ホームページより|「最後の鷹匠」から。
======写真は、野沢博美写真集「鷹匠」=====

出羽山地に囲まれた秋田県雄勝郡羽後町上仙道桧山。
 ここで多くの鷹匠が生まれ育った。その数
45人。自給自足の農業を営みながら、伝統の鷹狩りを守り続けた最後の鷹匠が武田宇市郎さん(平成4年死去、77歳)である。雪深い秋田の奥地、その厳しい自然の中で生きてきた鷹匠の人生は、人間の心を打つ何かがある
 
 鷹匠、武田宇市郎さんが住む羽後町上仙道桧山集落は、仙道川沿いに点在する集落の最も奥地に位置する。戸数16戸、耕作面積はわずか4反歩。日照時間が短く、冷たい沢水を引いての湿田の収穫は少なく、山峡の村の歴史は、厳しい自然と対峙しながらの貧困と凶作との闘いであった。こうした悪条件が鷹匠という伝統習俗を生み出した。
 秋田県内の山村には、狩猟を生業としたマタギ集落として、阿仁町、田沢湖町、西木村、鳥海町などがある。いずれも農業だけでは生きていけない山間の奥地に位置している。上仙道集落も実はマタギ集落であった。古くから農耕を営みながら、狩猟期の冬と春には山岳を歩いて狩猟に専念していたのである。
 雪の深山を登ってウサギをとるなどという苦行は、武士のやることではない。この周辺の山村農民が、狩りの上手な鷹に目をつけ、相当古い時代、独自に始めたと推測する人もいる。
(全てのコメントは、野沢博美写真集「鷹匠」、「最後の狩人たち」(長田雅彦著、無名舎出版)、各種新聞記事を参照した)

==最後の鷹匠==
一人の若者が村に帰ってきた。亡くなった鷹匠土田力三さんの長男、一さん(当時28歳)である。力三さんの死によって、ただ一人の鷹匠となってしまった宇市郎さんのもとに若者が通うようになった。この若者は、祖父林之助、父力三の血を引いている。そう思う宇市郎さんは、教えることがいっぱいあった、と言う。
 武田宇市郎さんの「高槻号」は、狩りも上手、容姿にも優れていたが、昭和58年7月に病死、さらに12月には後継者・土田一さんの「高森号」も病死、鷹も生き物であることをしみじみと思い知らされたのであった。
 こうしてついに鷹匠とその後継者と目された若者の手からクマタカはいなくなり、二人の前にはますます厳しくなる「法」の壁が立ちはだかっていたのである。
(野沢博美写真集「鷹匠」解説・小坂太郎より)

 鷹匠・武田宇市郎氏。大正4年、秋田県羽後町仙道村に生まれる。弟3人、妹5人、それに祖父母を含めて13人家族の中に育つ。父松之助さんは、かつて村でも名人と言われた鷹匠、父に連れられ16歳の時から鷹を操り始めた。
 昭和52年2月、全国で一人しかいない伝統の鷹狩りを守ろうと「鷹匠を育てる会」が結成された。町の公民館で行われた発会式に臨んだ武田さんと高松号。→
「郷土の伝統習俗を次代に残すために、クマタカを捕獲し育てたい」、昭和57年、武田宇市郎さん、土田一さん、育てる会事務局長の榎本勲さん、それに、町の人たちと環境庁で長官に鷹の捕獲申請を直訴したが・・・。

昭和57年6月、宇市郎さんと会の事務局長(榎本勲氏)と呼びかけ人代表の作家藤原氏が「鷹匠の伝統保存のためのクマタカ幼鳥捕獲許可願」を持って環境庁へ陳情した。クマタカは勝手に捕獲することのできない国の保護鳥のためである。
 しかし、「鷹匠を育てる会」側の論理と環境庁や一部の自然保護団体の意識の隔離は小さくなかった。さらに文化庁に民俗文化財の指定を要望しても容れられず、環境庁の捕獲許可も下りぬまま、昭和59年1月から特殊鳥類に指定する法改正によって、海外からの輸入も禁じられ、鷹匠と会の切なる願いは閉ざされてしまった。
 そして昭和61年10月5日、最後の鷹匠・武田宇市郎さんの鷹匠廃業宣言とともに、長い間、農と狩りによって生きる伝統習俗・農民鷹匠の灯も消えたのである。
(野沢博美写真集「鷹匠」解説・小坂太郎より)

鷹匠廃業宣言。鷹匠を育てる会が発足してから10年後の昭和61年10月5日、武田さんは、「本日をもって鷹匠を廃業することにしました」と涙ながらに廃業宣言。50年間鷹とともに暮らしてきた生活にピリオドを打った。この日、女優の藤真利子さんらの手で武田さんをモデルにした故・藤原審爾先生の小説「熊鷹・青空の美しき狩人」の熊鷹文学碑の除幕式が行われた。
 平成4年7月24日、自宅近くのため池で魚捕りの最中、心臓麻痺で亡くなった。77歳、ついに鷹匠の語り部の灯も消えてしまった。



鷹狩りに関してのたくさんの資料を集めて配信しているサイト「遊鳳窟」では、「最後のタカ匠についての雑記」で下記の資料をの記載がありましたので転載させて戴きました。。


師弟関係一覧(これまた不完全、コラム区分も便宜的なもの)
真室川の鷹使い  ・・・・・・・・・・ 矢矧七兵衛→ 沓沢朝治 → 松原英俊
羽後の鷹使い  院内の伝助→ 三浦寅吉→ 武田鉄蔵 → 武田松之助 → 武田宇市郎 → 土田一
院内の伝助→ 三浦寅吉→ 三浦恒吉→ 土田林之助→ 土田力三 _
村越家伝吉田流 [村越家代々] 村越才助 →
(幕府)
村越仙太郎 →
(宮内省)
丹羽有得 → 中島欣也
鈴木志朗
若杉稔
箕浦芳浩
小林家伝諏訪流 [小林家代々] 小林鳩三 →
(13代;幕府/宮内省)
小林宇太郎 →
(14代;宮内省)
福田亮助
(15代;宮内省)
花見薫 →
(16代;宮内省)
今村光男
篠崎隆男
田籠善次郎
室伏三喜男

土田林之助氏の記憶する羽後の鷹使い一覧

(明治) 三浦寅吉、武田次郎太、武田宇之助、武田周吉、菅原三右ェ門、鈴木長蔵、鈴木己之助、鈴木勇治、高柳末五郎
(大正) 三浦恒吉、武田鉄之助、武田庄吉、武田松之助、武田房吉、三浦慶吉、武田倉吉、菅原文吉、菅原源蔵、伊藤倉吉、斎藤精蔵、佐藤文蔵、鈴木朝之助、佐藤久蔵、高橋久之助、高橋誠太郎、今野堅蔵、佐藤弥ソ左衛門
(昭和) 佐々木重光、岡田周蔵、黒船某、今末吉、三浦定秋、武田嘉兵衛、武田養八、藤原金作、今野慶一郎、栗田米治、伊藤誠三郎、高橋尚吉


 土田一さんと、榎本勳さんを代表とする「鷹匠を育てる会」は鷹による猟を、伝統的な生活文化として継承するために。環境庁にクマタカの捕獲許可を申請したところ、自然保護の意味からそれが許可されなかった。たしかに今日猛禽類その数が減少している。それも実は自然保護を考えない開発の影響なのであった。伝統的な生活文化の一つが、もはやその物語を継承してゆくのみとなってしまった事は大変残念です。

 出来ることなら、鷹匠の地仙道檜山に、この「狩猟の碑」と共に、野沢博美氏の、写真集や小坂太郎氏、藤原審爾の作品等関わるあらゆる資料を展示で来るようになったら、と思わずにいられません。町では、これを文化遺産として管理することが出来れば長く伝承することが出来るのではないでしょうか。
 その昔、タカ使いの猟の勇姿をこの目で見たものとに取っては、ぜひともそう願いたいものです。