仙道中学校

竣工落成 1954(昭和29年)6月4日

1991(平成3年)3月最終の卒業式後閉校となる。
2400余名の卒業生を送り出した。
3地域合同の「高瀬中学校」に移転
もはや仙道中学校は姿を消した。

この写真は、仙道中学校その後、2003年4月現在の
画像です。雨天体操場と校舎の一部が「羽後ステンレス」
の工場として利用されています。

(写真西馬音内山内さん)

     


仙道中学校閉校記念誌「青雲」より
閉校に当たって 閉校記念実行委員長 村上素英

昭和20年8月敗戦。民主的平和的国家をめざして新生日本の誕生。新憲法制定、教育基本法、学校教育法の公布と一大教育改革が行われ、新学制のもとに中学校制度が誕生し、それに伴い村立中学校が創立(昭和30年町村合併により羽後町立)されたのが昭和22年4月であります。しかし独立校舎はなく仙道小学校に併設。昭和27年12月、現在地に木造校舎が新設されました(全校舎竣工落成は29年6月)。
創立以来44年間名実共に仙道地区の教育と文化のシンボルであり、また心の拠り所であったこの校舎、学校教育は勿論のこと青年教育、婦人教育、社会教育、またコミュニティーの拠点としてその役割を果たしてきたことは周知の通りであります。
半世紀に及ぶ卒業生は2400余名。時代の要請により校舎は閉校となり、その歴史の幕を閉じて山間部の三校統合による「高瀬中」に生まれ変わり、再び仙道中学校の名を呼び合うことの出来ないことを思えば、一抹の寂しさが残るのも人情であろうと思います。どんなに時代の趨勢とはいえ、学校が無くなることはとても淋しいことです。しかしそれもやむお得ない事であります。校舎はなくなってもそこで学び育てられ培われた仙道魂は永遠に消ゆる事なく燃え続ける事と信じます。
素晴らしい施設設備と恵まれた環境の中に発足する「高瀬中学校」の門出に惜しみない拍手を送ると同時に、新しい伝統を築く中心的な役割を仙道魂によって発揮される事を後輩に期待するものであります。
最後になりましたが閉校行事、記念誌の発行に際し物心両面にわたってご強力下さいましたたくさんの方々、諸先生、関係者の方々に心から感謝申し上げまして挨拶と致します。

発刊に寄せて        教育長  水沢敬吉

和22年創設の仙道中学校が、45年の歴史の幕を今閉じようとしています。時代の趨勢により発展的閉校とは言うものの、やはり一抹の淋しさが残ります。校歌に残る゛姥井戸の緑"゛春秋の山河ゆたかになごむ郷土"゛向学に燃え希望に満ち溢れ"校歌と共に幾星霜。少年の希望と少女の愛と志を生んだ仙道中学校に対する名残は尽きません。教室の窓、長い廊下、段々校舎、一本の柱にもそれぞれたくさんの人々が通りすぎた汗と涙がにじんでいます。まさしく故郷の青春を育て、歴史と伝統を育んでくださった学舎に対し思いは尽きないと思います。このように校舎の閉校を惜しみ、数々の思い出を後世にに記録し、とどめおくためにこのような記念誌が刊行されることは誠に貴重であり、意義深いものと思います。
「学校が消える」「もう校名を呼び合い、みんなで校歌のもとに誓い合うこともない」。このことは地域にとってまさに重大なことであります。しかし、校舎は消えても、そこに住んでいる人々や校舎で育まれた仙道魂は消えることなく時代を担う後の世に受け継がれてゆく事と思います。時代の中でやむを得ない閉校を惜しみつつよき伝統を引き継ぎ、新生「高瀬中学校」の発展に寄与されるよう祈念致します。
終わりになりましたが、本校の閉校記念行事を推進して下さいました地元皆様をはじめ、関係者のご尽力に対し、深甚なる敬意と感謝の意を表します


閉校に当たって発行された記念誌「青雲」から
雪振る中の番楽          小坂芳太郎

四季折々の装いを替える真坂峠を通った仙道中学校の思い出は、その風景のように彩り濃く鮮やかである。粗の積み重なる追憶のイメージのカードから、任意に一枚を抜いてみれば・・・・。
昭和52年の12月の暮れ、雪のそぼ降る上仙道中村の「番楽再興粗」の石碑の前にビニールシートを敷き、太鼓・笛・鉦(かね)で拍子をとる番楽団にあわせ、手製の鶏を形どった冠、水色や緋の袴に色たすき、右手の錫杖(しゃくじょう)をシャンシャンと鳴らし、左手の白扇をくるくると回し、仙道中番楽クラブ(代表6名)の生徒は、あでやかに威勢よく「鶏舞(とりまい)を舞った。
その記事と写真が『いまよみがえる先祖の心、郷土芸能を受け継ぐ中学生ら』のタイトルで、昭和53年元旦の朝日新聞の巻頭を飾ったのである。当時1年から3年までの男女希望者13名で「番楽クラブ」を結成し、番楽団長武田利一さんを講師にして、週一回「鶏舞」の練習に励んでいたのである。また、夏・冬休みに生徒会の中から「村や部落に残されている歴史・文化遺産を調べよう」という研究課題がだされ、生徒が学習してきた資料をまとめて『郷土研究』の文集がつくられていた。そこからまず、仙道地区の道ばたに建つ番楽師匠・産婆・草相撲・鷹匠・屋根葺き職人・巡回教師等々の「民衆の碑」の顔が明らかになっていったように思う。そして、秋田支局の長田雅彦記者が、郷土教育の所産であるこれらを『碑(いしぶみ)の村』新年特集連載として全県に紹介したのである。
礎の石づめ             嵯峨宗子

五十路を上り始めた今なお中学時代の夢を見ます。うれしいことにれっきとした「中学生」なのです。高台の山をくずして新校舎の建設が決まって、生徒達も土台に敷き詰める石を下の川から運び上げるという今まで考えられない作業の始まりです。背負った箱のそこを持っているヒモをゆるめて石を落とす仕掛けの元祖ダンプのような箱を背負ってアリのような気長な作業でしたが、この石運びを思うとき、決まってHさんの事を思い、思わずウフッ都なってしまいます。彼は人一倍の石を背負うのですが、次郎先生が、「ヤァ、H、すごいナァ」と褒められたが最後、ますますエスカレート、エンヤと多くの石を運び通したっけ。大人の人達の土台を固めるドンヅキつきの作業歌も耳に残っております。
新校舎第一号として勇んで移ったものの未完成の校舎は体育館はもちろんの事教室も足りず、私達3年生は音楽室にA・B合同70余名の大所帯、従ってA組B組の区別がなくて皆が同級生であり、これは本当に幸せな事であると感謝の気持ちです。バスケット部で、2年連続で雄勝郡を制覇し全県大会に出場したことも懐かしくキューンとあの頃の琴線にふれて、仙道中学校を永久に忘れはしないと、あつい想いにかられます。
古里への行き帰りに、学校下のT字路で、決まって見上げた校舎、発展的であれ何であれ無くなる事はさみしいことですがこれも時代の流れでありましょう。
 高瀬の里に幸多かれ