通信誌まどい



「まどい」は、それは小さなグループの通信誌の名前です。
グループとは、秋田県は羽後町の中学校を、1955年(昭和30年)に卒業したもの達です。
集団就職の時代でした。現在のように情報が氾濫しているわけでもなく、
東京はものすごく遠いところでした。
中学校を終えると、農業など家業を継ぐ人達のほかは、たいてい村を出ることになります。
こうしてちりぢりになってしまう友達を案じて、
いつまでも励ましあってゆきましょうと始められたのが、この「まどい」という通信誌でした。
名前も、「紙面でヒザを寄せ合いましょう」との願いでした。
それから45年、還暦を越えたこんにちも通信は続けられ、170号を数えるまでになりました。
悲喜こもごも、まるまる60年の人生を共にしてきた感じがあります。

150号、四〇周年を迎えた『まどい』は、こう記していました。



『人生その数63個、民主主義の一波瀾を乗り越え混乱も鎮まりかけ、権力はまたぞろ独裁をむさぼろうと企むまでになってきた時、社会に出てきた私たち。学校で習ったこととあまりにもかけ離れた常識。こんなものかと枕をぬらしながら堪えてきた。高度経済成長のただなかで働け働けの青春時代からこんにちなおアクシデントに見まわれている人がどれくらいいるだろうか。
しかし我らが人生63個、ひとつになったときどんなに大きな力になった事だろうか、助け合い励まし合いのそんな気持ちで生きてきました、
「これまで苦労してきたのは自分一人だと思ってきたが」そうでなかった事を知り、語り合うごとに深まる連帯の気持ちは尊いものです
他人を思いやるこころ、人間の愛と尊厳。こんにち最も求められている事ではないでしょうか、
オウム真理教の非人道的な数々の蛮行、企業の人権を無視した儲け主義。決してつながらないとは言えない「戦後五〇年国会決議」に見るような世界の人々を苦しめて「ごめんなさいも言えない日本の指導的な人たち。自分が良ければ良いと言うことは決してそのまま通る事ではありません。
他人を愛し、信頼して始めて自分が安心して生きられるものです。
『まどい』はずっとこのこころを持ちつづけてきました。どこかに災害があったと効いて心配し、友達に不幸があったと聞いてみんなで泣いた。そんな『まどい』の40年。
我らが人生56年、その昔ならいっぱしの年寄り。いまや人生80年言われまた寿命が延びて世界一の長寿国とか。いつのまにか我々も、孫を連れて散歩のところまで来てしまいました。

いろいろな人生があります。ここに63個の人生があります。
20代で別れを告げた三枝子さん。秀幸さん。最愛の夫をなくして後を追うようにこの世を去ったタキ子さん。くしくも病に倒れた貞一さん。忠雄さん。浩二さん。これからと言う時にご主人に先立たれたシゲさん。ヨコさん。稲子さん。頑張り続けてきました。
さては最愛の我が子を事故で失った朝蔵さん。卓男さん。特に卓男さんは、たった一人の息子さんでした。
清志さんは、10年にかかる年月を今も病院でリハビリに励んでいます。生死をさまよったと言えば、あい子さん、正二さんも、和雄さんもでした。
こうした苦しみは、当人でなければ分からない事です。それでも一緒に泣く心を持ちつづけてきました。

『まどい』150号、40年、55歳。その人生を見つめてきました。まだこれからが私たちの人生を踏みしめてゆく事の意味があろうかと思います。たかがチリ紙のようなこの『まどい』でも、お互いの何らかの支えになり得たとすれば、お互いの宝物とも言えないだろうかそして、私たちの人生の中で気になる事の一つになれればと思います』



小さな小さなグループとはいえ、半世紀近い年月この活動が続けられてきました。
子供時代を引きずっていると言う見方もありました。
ところが、最近になって、同じような事をやっておられる方々にめぐり合う事が出来ました。
しかも、年代も同じと言う不思議な事にも突き当たりました。
現在その方々との交流をさせて頂いておりますが(長崎県・高槻市・和歌山県・名古屋市)
もしかしたらもっとこうした通信活動をやっておられる方があると思われます。
よろしかったら、連絡を頂き、交流させていただきたいと思います。